個人的な感情を如何に「みんな」「大衆」「国」というところに持っていくかが世渡りの処方です。(とキッパリ)

http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040804#c


# gaikichi 『(略)なるほど、反戦でも賛戦でも、それがいかに正義だという根拠があっても、強制されたら嫌だ。でも、じゃあ「俺が嫌だから」って言うべきじゃないか。イラク人質三人への批判でも「俺がむかつく、あいつら嫌い」ってのなら嫌な感じはしない。ところが、皆がいきなり自分自身普段から別にそんなに物凄く愛国心に燃えてるわけでも積極的にお国のために高額納税してるわけでもなかろうに、「国益に反する」という、自分でなく「国」という大きなものの正義に便乗して非難するってのは、なんか気持悪い。これは反対に、たまたま「反戦運動に身を投じる人を支持しろ」ってのが共同体多数派の原理になって、その流れに便乗して押し付ける奴が多くなれば、それも同じ気持悪さを感じるだろう、右とか左とか関係ない、共同体世間の主張への便乗に自覚がないのはなんか嫌、という話です。』

「俺が嫌だから=わがままで悪いこと」っていう教育を受けているからねえ。そういう意味では「自分でなく「国」という大きなものの正義に便乗して非難する」行為は全くもって正しいんですよ。「個人のわがまま」ではなく「大きなものの正義」なわけですから。学校教育の浸透という意味では「落ちこぼれ」の存在なんてとても少ないと思いますよ。

ついでに言えば「民主主義=多数決」ってのも教育の浸透がもたらした成果だね。日本の教育は全然失敗なんてしていませんよ。

自分を「大衆」というものの中においておけばあとは「民主主義=多数決」でMUTEKI!だし、気に食わない連中は全て朝敵にできるからネ!