孫引き

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三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 

 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。

三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。

 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。

 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。(「ゆう」注 「ユーハイム」のことだと思われます)

(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54〜P56)

*「ゆう」注 岡村寧次大将の認識については、こちらの「岡村寧次大将資料」をどうぞ。

**インタビュー記事の紹介より 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと) 一九一五(大正四)年十二月二日生まれ、七八歳。皇位継承順位は皇太子、秋篠宮常陸宮についで第四位。オリエント学者。(略)昭和天皇の弟。(以下略)


小川哲雄氏「日中戦争秘話」より
  あれは昭和十八年の春頃ではなかったか。総軍の若杉参謀から総軍司令部尉官将校に対し、次のような命令が下された。

 「支那事変が今に至るも解決せざる根本原因について思うところを述べよ。
 但し、三行三十字以内とする。」

 文章は長ければ楽だが、短くすればするほど難しい。われわれ若手将校はあれこれと知恵をしぽって解答を書いた。

 数日後、総司令部大会堂に尉官将校数百人が参集した。壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、左右には総軍司令官、以下参謀長、将官、佐官がずらりと居並んだ。陪席という恰好である。
 若杉参謀の講評がはじまった。

支那事変未解決の根本理由に関する諸官の解答についてつぶさに目を通した」
 参謀はその解答の代表的なものについて一枚一枚手にとって読み上げられた。
 日く、蒋介石の徹底した抗日教育。
 日く、ソ連の延安を通ずる支援。
 日く、英米の物的援助。
 日く、ビルマルートの打通。
 日く、中国大陸の広大さ。等々。

 若杉参謀はその各々について、解説を加え、事変未解決の一つの原因であるかも知れない、とされながら、

 「しかし、そのいずれにも本官は満足しない。諸官の解答は事変未解決の原因の一つだとしても、それは単に枝葉末節的、あるいは部分的原因にすぎない。いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。諸官の解答は落第である」

 若杉参謀は机の上に積み重ねた解答の中から一通の答案を取り出し、
 「但し、この解答だけは本官が期待した唯一のものである」
 「沢井中尉、前えっ」

 沢井中尉(大阪在住)は私と軍事顧問部の同僚であり、大阪外語の出身であった。
 沢井中尉は若杉参謀の前に進んだ。
 「読み給え」

 沢井中尉は自分の書いた答案を両手で眼の前に掲げながら、大きな声で読み上げた。

 「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざるにあり」

 沢井中尉が読み終わると、間髪を入れず、若杉参謀の声が語気鋭く講堂にひびいた。
 「その通り。事変未解決の根本原因は日本人が真の日本としての行動をしていないからだ。略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か。大陸における日本軍官民のこのような在り方で、いったい陛下の大御心にそっているとでも思っているのか」

  若杉参謀の前にならぶわれわれ尉官はもとより、左右に居ならぶ総司令官以下、将官佐官、ひとしく頭を垂れ、満堂粛として声がなかった。

 若杉参謀はさらに語をついで
 「わが日本軍に最も必要なことは、武器でもない、弾薬でもない。訓練でもない。これだ」
 若杉参謀はくるりと後ろを向き、黒板に大書された。
 ”反省、自粛”
 「自らをかえりみ、自らをつつしみ、自らの一挙一動、果たして大御心にもとることなきかを自らに問うことである」

 言々火のごとき若杉参謀の一語一語であった。軍の驕慢、居留民の堕落を衝いて余すところなく、今、この時、真の日本人、全き皇軍に立ちかえることが出来ねば支那事変は永久に解決しないであろう、と斬ぜられた。

 満堂、声がなかった。
 私は参謀の御言葉の中に日中事変そのものの不道義性へのお怒りを感じた。

 全員起立のうち、若杉参謀が退席された。
 退席されるや否や、総軍高級副官が冷汗をぬぐいながら、われわれ尉官に対し、「只今のお言葉は、何ともその、恐れ多い次第であるが、その何というか、あまり、いやまあ、なるべくだな、外部には、口外せんようにな」
 汗をふきふき、しどろもどろの高級副官であった。

 若杉大尉参謀は、支那派遣軍総司令部における三笠宮崇仁親王殿下の御名であった。

(P31〜P34)

*著者紹介より
  小川哲雄(おがわ・てつお) 大正三年、大分県中津市上如水生れ。(略)昭和十七年、任南京国民政府軍事顧問・兼経済顧問補佐官。昭和二十年、終戦直後(八月二十五日)、南京国民政府陳公博主席以下政府要人七名の日本亡命を領導、京都金閣寺に入る。同年末、陳公博夫人を送って再び中国上海に赴き帰国。

**「著者紹介」にもありますが、この本は、小川氏が、「南京国民政府顧問」を務めた立場から陳公博主席らの日本亡命に付き添った体験談です。このような立場の人物も、三笠宮氏の認識に共感を示していることが注目されます。なお、著者は、「日露戦争を人種平等化への第一歩とするならば、大東亜戦争はまさに白人に対する有色人種の断固たる自己主張の雄叫びであり、人種平等化への巨大な第二歩であった」(P281)という思想の持ち主です。